【教員エッセイ】マンガと教養(2)冒険もの/茶谷薫


前回の『マンガと教養(1)』で、「ストーリーの構造」について書きました。今回は、その具体例をもう少し挙げてみます。例えば「冒険」や「お宝」というワクワクさせる物語の構造があります。有名な『青い鳥』や『80日間世界一周』などでは、主人公たちが「幸福」や「全財産のギャンブル」という「宝」を求め、冒険に乗り出します。実はこのストーリー構造は定番なのです。もちろん、映画でもマンガでもゲームでも、です。RPGゲームもそうで、クラシックな『ドラゴンクエスト』も、2016年夏に話題となった『ポケモンGO!』も、「外に出て(≒冒険して)」何かをゲットする形式に則っている点では同じなのです。

 

文化人類学的にも、宝探しのための冒険は様々な民族が伝えてきた伝説の定番なのです。そう考えてみると、宝探しと冒険は、遥か昔から人間が経験したり憧れたりしたことなのでしょう。

 

しかし裏を返せば、憧れ通りにはならない話でもあるわけです。主人公が宝探しに成功すれば、脇役が失敗するわけです。私は華々しい主人公的な生き方はできないので、脇役に目が行きますから、なおさらそう思ってしまいます。

 

ところで古典でも有名な『竹取物語』は、様々な読み方ができる興味深い作品です。物語成立当時の政治家たちへの批判、中に空間のある竹に対する畏怖と呪術的な感覚などです。しかしこれは、裏・冒険物としても解釈可能です。貴公子たちが美しい姫からOKを貰うために、通常では絶対に手に入らない珍しい宝物を苦労して入手しようとする点はどうでしょう。それだけではなく、姫という「お宝」的な美しい女の人を獲得するために、「宝物(姫の要求する珍品)」を探す、という二重の宝探し物語になっているのです。ただし貴公子たちはあくまで脇役。一部は本物に似せて作らせたまがい物であると露見します。まともに宝物を探した貴公子も酷い目に遭います。彼らは皆、珍品も、姫の心も得られず、バッドエンドで終わるのです。そして何より、宝物を得る勝者がいない、主人公は男子ではなく、言い寄る男性貴族に宝探しを命じる女子(姫)、という興味深い話なのです。正統派冒険物ではない『竹取物語』は、何て深い話なのでしょうか。

 

正統派の冒険物はどうでしょう。最近のマンガでは、野田サトルさんの『ゴールデン・カムイ』(集英社)こそ、私が最も面白いと感じる冒険&宝探し作品です。この作品は数年前から話題になり、2016年にはマンガ大賞を獲得したので、ご存知の方も多いでしょう。

 

主人公が北海道に隠された金塊を探すことになり、異なる二つの勢力と三つ巴の争いを繰り広げ、そこにアイヌの美少女も加わります。『ゴールデン・カムイ』の単行本にあった帯や公式サイトでは、本作を「冒険(バトル)、歴史(ロマン)、狩猟(グルメ)」と打ち出し、宣伝していました。「冒険(バトル)」とは、金塊探しをする旅と、金塊を得ようとする敵(ライバル)との闘いのことです。現代でも冒険と宝探し、という定型は踏襲されているんだな、と実感できる快作です。

 

もちろん、これ以外にも『ゴールデン・カムイ』が人気作品である理由があります。それは、奇妙な性向を持ちつつも愛嬌のあるキャラクターが沢山出てくること、日露戦争直後を描き、新選組の土方歳三を登場させている歴史物であること、そしてアイヌの狩猟や食事、衣服、習慣、自然への畏敬といった精神世界と儀礼、言語といった文化を丁寧に描いていることです。今の私たちが知らないアイヌの素晴らしい文化を、狩猟が得意なアイヌの美少女キャラが紹介する形式も、読者を惹き付ける重要な点で、芸術教養領域の「異文化体験」の授業でも紹介したいと思っている部分です。

 

古今東西、伝説、小説、アニメ、実写、ゲーム、といった様々な作品で私たちを魅了する冒険とお宝もの。『桃太郎』のように主人公が宝を見つけて大成功という話もあれば、『青い鳥』や『80日間世界一周』のように当初目指していた「分かりやすい宝」とは異なる本当の宝物を得るストーリーもあります。脇役をメインで見ると、冒険と宝探しが失敗して終わる、という読み方もできます。こうした視点でお気に入りの作品を見直してみるのはいかがでしょうか。