「お金が欲しいなあ」と思ったことはありませんか。小学生の頃、マンガが買いたくて買いたくてならなかった時、私は毎回切望しました。「マンガが買えるくらいで良いから、お小遣いが空から降ってこないかな」と。今も、読みたい本や食べたい物が買え、そこそこ住みやすい住居で暮らす程度のお金は必要だと思います。
お金がないのは辛いこと。でもお金は怖いものでもあるのです。それを端的に描いたマンガが、古くからあり、ジョージ秋山さんの『銭ゲバ』や、ちばてつやさんの『餓鬼』が代表的な名作です。新しいところでは、堀尾省太さんが描く『ゴールデンゴールド』(講談社、『月刊モーニングtwo』連載中)が興味深い展開となっています。
まずは『ゴールデンゴールド』のあらすじを紹介しましょう。主人公は不登校となった女子中学生。彼女は、寂れた過疎の島にある祖母の家に預けられています。そこで恋した相手はオタクの同級生。しかし鈍感な彼は「父親が住む都会の高校へ進学する」、愛して已まない店の「アニメイト」がある都会に出て行く、と嬉しそうに語るのです。別離を恐れ、悩む少女は「島にアニメイトができると良いな」と願うのです。
そんな時、彼女は変な形の像を拾います。それは『福の神』でした。祖母は客がほとんど来ない民宿と小さな店を経営していましたが、『福の神』が来てからというもの、大繁盛。そして福の神を拝む人々を増やしていきます。少女が大好きな祖母の形相も、変貌していくのです。そして大儲けする祖母に嫉妬する島の有力者。彼に荷担し、祖母を脅迫する男…。『福の神』は本当に幸福をもたらす神なのか…?民宿で作品の構想を練る作家も巻き込んで、ハラハラドキドキのスリラーが展開されているのです。
元外交官で作家の佐藤優さんなども言っていますが、大抵の欲には限度があります。幾ら美味しい高級な料理でも、食べられる量は知れたもの。しかも毎日ご馳走ばかり食べていたら、普通の粗食も欲しくなります。靴や服が大好きでも、プラモデルやモデルガンを愛して已まなくても、置く場所にも、頭に入れるスペースにも、身に付けたり手に取って愛でたりする時間や機会にも上限があるのです。
ところがお金はそうではありません。札束やコインを置くスペースは限定されますが、銀行にあれば、電子マネーならば、ただの数字です。数字の桁が4桁だろうが、40桁だろうが、データ量はほぼ同じです。無論、単なる数として扱えるマネーは幾ら手に入れても、お腹いっぱいにもならないのです。つまりマネーの欲望には上限がないのです。
昔の華族だった人のエッセイを読むと、優雅な人々はお金を持ち歩かなかったことが分かります。お金を触ることもありませんでした。支払いをするのは、高貴な人たちの家で働く人々なのです。お金を持つのは美しくない、お金で左右されれば貴さを失う、という感覚。「武士は食わねど高楊枝」という言葉も、本来はそうしたものだったのでしょう。
お金は、ほどほどには必要です。しかし莫大なお金を、お金に振り回される人が手にすれば、どのようなことになるか。それを端的に感じさせてくれる素晴らしいマンガ作品も、数時間働けば入手できるほどのささやかな値段が設定されています。